病床からの京都大学受験記
◆chap1 〜spark〜
―― どうして毎日毎日、高校に通っているんだろう?
高い学費を払わされて、自分の時間を大幅に割かれて、偉そうな教師に対して従順を装って。そこまでやらなければならない理由は、一体何なんだ。そこにどんなメリットがあるんだ。
授業でやっていることなんか、殆どわかりきったことだらけじゃないか。参考書を買い揃えてマイペースに勉強した方が、どれほどいいことだろうか。
大学受験資格ならば、大検で簡単に取れる。将来の履歴書の傷なんて、そんなことで弾く企業はこっちから願い下げだ。
会う機会が少なくなったからといって失くなってしまう、そんなうわべだけの友情なんか要らない。精神的に繋がってさえいれば、それで構わない。
それに、…この情緒不安定ぶりは何だ。
このままではきっと、近いうちに私は壊れる。間違いなく、学校に潰される。
―― 高校なんか辞めてやる。退学して、独学で大学に入ってやる。
2003年9月。今から1年ちょっと前のこと。
その頃の私は…、荒れていた。とは言っても別に、非行に走っていただとか、暴力をふるっていただとかいう意味でではない。
例えば、ふとしたことで気持ちが沈んだり、何もないのに泣きそうになったり、自分の感情をコントロール出来ずにパニックを起こしたり。本人には全く記憶が無いのだが、眠ったあとで無意識状態のうちに、壁を殴ったり弟を蹴飛ばしたりしていたこともあったらしい。
今振り返ってみると、この頃、私は確実に病み始めていた。…精神的に。
“退学”ということを考え始めた最初のきっかけが何だったのかは、全くと言っていいほど憶えていない。
おそらく、ホンの些細なことからくる不満が積み重なって、アタマの中でループを繰り返して…。そして、冒頭に書いたような考えに行き着いたのだろう。
9月23日。遂にそれが爆発した。
体育祭の競技中、パフォーマンスと称してちょっとふざけてみたら、あとで担任から呼び出しを喰らったという、…自分で書いていても情けなくなるくらい、これまたホンの些細な原因で。
帰宅早々、私は母に向かって言い放った。「文化祭終わったら、学校辞めるから」…と。
母はさして驚いた様子でもなかった。私がしょっちゅう学校のことでグチをこぼしていたから、いつか言い出すのではないか、と思っていたのかもしれないし、単にまだ、本気だとは思っていなかっただけなのかもしれない。
とにかく、退学への第一歩を踏み出したのだった。
10月。
「退学→大学受験」というコースを進むべく、本格的に大検制度について調べ始めた。
一応学校へは通っていたが、授業中は大概、文化祭で出品予定のゲーム(数学研究部という名のプログラミング部に所属していた)や、趣味で組んでいたBBSスクリプトのことを考えていたし、中間テストはかなり適当に受けていた。
11月3日、文化祭。
私が担当のゲームは、かなりギリギリのタイミングだったが何とか完成し、「立つ鳥は何とやら」という言葉がアタマの中を飛び回っていた。
――そして、もう学校に未練は無くなった。
◆chap2 〜battle〜
――11月9日、日曜。
初めて父親に退学の意思を伝えた。
2時間以上にわたる話し合いとなったが、両者全く譲らず、平行線のまま終了。
そうすんなりと認めてもらえるとは思っていなかったが、かなりの長丁場になりそうな予感がした。
その翌日から、私の新しい生活が始まった。
父の出勤が私よりも早いことを利用し、登校しているフリをして図書館やファストフード店へと通うことにしたのである。学校側へは、既に味方につけていた母親から“退学宣言”を伝えてもらっておいた。
自分1人でやる勉強は、…予想以上にはかどった。朝から夕方まで勉強。帰宅後はPCをいじり、就寝前に再び勉強。そしてタップリと睡眠時間を確保。総勉強時間こそ減ったものの、勉強の「質」を考慮すれば、かなりの効率アップだった。
この生活を手放してたまるか。…そんなことを考えながら、勉強漬けの数日間が過ぎていった。
その週の土曜日。予想以上に早くばれてしまったらしく、父が図書館へとやってきた。
“父子の対話”を持ちたかったようだったが、私が完全に無視したため、結局単なる一方的な説教に終わった。
しかし週明けからも、私は図書館へと通い続けた。父親など全く眼中に無し。「心配するなら勝手に心配しとけやっ!」…とにかく、あまりの干渉に腹が立って仕方が無かった。
11月20日、木曜。
父はこの日、遅番だった。更に悪いことに、私が寝坊した。
その結果、…朝食後から昼過ぎまで、4時間近くに渡って“父子の対話”という名の説教が行われた。最終的には、軽く精神耗弱状態に陥った私が根負けして、退学宣言を撤回する羽目になってしまった。
勿論、立ち直ってからすぐに再撤回したものの、…そんな自分に、激しく自己嫌悪。
――そして、翌朝。
何の前触れも無く、布団から起き上がれなくなった。
「起きなければ」という意志はあるのだが、身体に力が入らない。まるで自分の身体ではなくなってしまったかのような感覚だけがまとわりつき、「とにかくこの身体を何とかしないと」と思っても、どうにもならない。
精神ばかりでなく、今度は身体までもが自分の支配下から離れてしまったのか…?そんな恐怖感がつのるばかり。何とかそこから解放されたのは、正午を軽く回った頃だった。
次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、午前中は全く動けなかった。
午後から、特に夕方を過ぎてからは普通に行動できたので、いわゆる「日内変動」の一種なのではないか?というように考えることは出来たのだが、そんな“知識”は何の足しにもならなかった。自分の意思通りに身体が動かない、という“事実”に変わりはないのだから。
1週間ほどして、ようやくマトモに動けるようになってきた頃、再び父と話し合(うことになってしま)った。しかももう寝ようとしていたところに。
あまりに面倒だったので、黙秘権をただひたすらに行使すること1時間。…今回は父が折れた。自分の手には負えない、と考えたらしい。
――しかし、これで晴れて退学が認められた、という訳ではなかった。
◆chap3 〜phantom〜
――“黙秘権行使”から、数日後のこと。
私は、父の知り合いのカウンセラのところへと連れて行かれた。
私に対する説得は、どうやらその人に一任されたようだった。
電車に乗って2時間弱、更に歩いて20分ほど…。
目の前には、「奈良内観研修所」という看板のかかった、立方体に近い形をした建物があった。
チャイムを押して出てきたのは、60歳くらいのオバチャン。一見して、とても温和そうで親しみやすい雰囲気だった。
「こんなオバチャン論破するのなんて、軽い軽い♪」…そんなことを考えながら、私は応接間のソファに座った。
しかし、それからたったの1時間後。
私は見事に負けてしまっていたのである、その“温和そうな”オバチャンに。
オバチャンは、ツワモノだった。カウンセラとして培ってきた経験によるものなのだろう、私のことを褒め殺しにし、締めるべき所はしっかりと締めてくれた。
17歳の小生意気な高校生と、百戦錬磨のカウンセラ。今考えてみれば、その力量の差は圧倒的だった。
そして…。今度は納得の上で、約束してしまったのである。
「退学宣言は取り消し、明日から復学する」「今後は自分の勉強と学校の勉強とをキッチリ両立させる」…と。
偶然にも、翌日は期末試験の初日だった。
そしてお座なりのテスト勉強で1週間をやり過ごすと、もう試験休みに、つまり事実上の冬休みに入ってしまった。
そのため、私は思う存分、自分のための勉強に没頭することが出来た。
――だから、その時は全く気付かなかったのである。
“両立”なんて、あくまで理想に過ぎない、ということに。
それが可能なのであれば、そもそも最初から“退学”などということは言い出していない、ということに。
そんな簡単なことにようやく気付いた頃には、年も明け、新学期も始まり、私の復学はもはや既成事実となっており…。
…もう、突っ走るしかなかった。
◆chap4 〜decline〜
――再び身体に異変が出始めるまで、そう長くはかからなかった。
新学期に入って早々、精神的なダウンが相次いだ。鬱傾向、浅い睡眠、集中力の欠如…。そんな毎日が続いた。
そして1月下旬。再び、起き上がれない日が出始めた。
最初は1週間に1日くらい。それが徐々に増えていき、2月の末には1週間の半分を超えるようになっていた。それに伴って、精神的なダウンも酷くなる一方。
もう、勉強どころではなくなっていた。
3月1日。遂に、初めての心療内科へ。
積もり積もった色々なことを先生に喋って、だいぶ気がラクになった。
何よりも、いわゆる「精神安定剤」を出してもらえたということが、精神にとって大きなプラスだった。
一種のプラセボ効果と言ってもいいのかもしれないが、処方箋をもらった時には、「コレを呑めば当面は苦痛から解放されるんだ…」という安心感があったように記憶している。
それからの1ヶ月間は、前月とうって変わって好調が続いた。
3月の中頃には、一時的に判断能力が戻ったためか、再び“退学宣言”をしたものの、
2度目ともなると殆ど誰からも支持が得られず、またもや断念。
しかし私自身、もう完全に、快方へ向かっているものと信じていた。
――だが。4月1日、新年度の始まりの日。
“悪夢”は再び、私のところへと戻ってきた。
クスリが効かなくなったからなのか、気付かないうちにストレスが溜まってきていたのか、その両方なのか。
それはわからないが、またもや、アタマも身体も私の言うことをきかなくなった。
この時には、過去のそれとは違い、悲愴感が全くなかった。
それまではいつも、アタマが回らなかったり身体が動かなかったりすると、悲愴感が伴ってくるものだったのだが、この時だけはそれが全く無かった。
ひょっとすると、クスリのおかげで辛うじて精神状態だけは安定していたのかもしれない。
しかし、それが災いした。
何故ならそのせいで、自分の状態をかなり甘く見てしまったのだから。
新学期、授業が始まる頃になっても、一向に体調は戻らなかった。
それどころか、日を追うごとに悪くなる一方だった。
4月19日。
この日は昼休み頃から、いつもにまして精神状態が良くなかった。
そして、5限の授業中。“それ”は突然にやってきた。
押し寄せてくる不安感、激しい動悸、目眩、過呼吸、吐き気…。
いわゆる「パニック発作」の軽い症状であり、私も知識としては知っていたのだが、体験するのは初めてのことだった。
「我慢していれば、すぐに消えるはず…」そう願いながら机に突っ伏すこと、数十分。しかし授業が終わっても、症状が和らぐことはなかった。
これ以上は耐えられないと感じ、その日は早退。
帰宅後すぐに心療内科へと向かい、発作の時のための頓服薬を処方してもらった。さらに、3月初めから呑み続けていたクスリも倍量に。
精神安定剤の量が増えるのは、本来は好ましいことではない。
それは自分でもわかっていたのだが、取り敢えず目の前の恐怖を拭い去ってくれる“クスリ”というものは、とても魅力的な存在であった。
その後2日間はやや調子が良かったものの、22日の夕方、遂に本格的にダウン。
そして、その翌日から、長期にわたる欠席が始まった。